2012/11/28Wed
先週末、かつての同僚の導きにより、
震災後初めて、南三陸町に入りました。
感じた事を一言で言うと、
「何をもって復興・復旧とするのか?」
という事です。
私が見たのは、
「一応ガレキ類は撤去しました」という域を出ない、
かつての中心街の姿でした。
決壊した巨大な堤防が斜めに傾いだ異様な景色、
山側から海に向かって、裾野が広がっていく、
基礎をむき出しにした茫漠とした土地、
少し目線を移せば、「これでも減った」らしいのが信じられない量の
ガレキの山。
言うまでもなくかつて、そこにあった商店街、
現地の人にとっての懐かしい情景は、
そこにはありません。
友人が言うには、
現地の人は「その懐かしい情景を追い求めている」んだ、と。
という一方で、それが失われてしまってもう取り戻すべくもない情景だ、
という事も彼らは知っているのです。
高台や、海から少し離れたエリアには、
1年前から、「南三陸さんさん商店街」という、プレハブの商店街は出来ており、
当日も沢山の人でにぎわっていました。
復興市が立ち、外部からの人が来てお金を使ってくれてもいます。
仮設住宅住まいではあるものの、
生活のインフラ自体は、一旦の整備がされていて、
その意味では復旧自体はしているのかもしれません。
でも、実際は、現地には、
大潮になれば水がかぶって簡単に道路が冠水してしまう、
基礎だけが無残に曝された「場所」があるだけ。
そして、住民の方々の気持ちは、その虚空を彷徨っている。
八幡川を中心に広がった、かつての自分たちの街の記憶をなぞる、
住民の方々の気持ちの復興は、やはり済んでいない事を感じます。
物理的な復旧・復興とは別の次元で一つ欠けているのは、
かつての街を郷愁を持って思い返す、
住民の方々の「気持ちの行き場」のように感じました。
「復旧・復興とは何か?」を考えた時、
この「気持ちの行き場」を整える必要を強く感じました。
一方で、一番歯痒く感じたのは、
「何かしたいのに、何をすれば良いのかわからない」事です。
旧防災庁舎などは、観光名所化し、観光バスが次々と訪れてもいました。
簡単な仏壇が備えられ、訪れた方々は一様に手を合わせていましたが、
それを見て、何を感じれば良いのかさえ、私には分かりませんでした。
街にお金が落ちるのは良い事かもしれないけれども、
現地の方は、どんな気持ちでそれを受け入れれば良いのか?
私が現地で見た、あの風景を毎日見続けるのは、
大変な苦痛を伴うはず、と単純に思うのです。
部外者の私がそう思うのですから、街が壊れる前の、
情景を知っている方々なら猶更です。
高台を中心とした住宅建築などを盛り込んだ街による復興計画は
着々と進んでいるようですが、
現地の状態を見る限り、復興庁を中心とした国などが
積極的に関与している気配はそれほど感じませんでした。
物理的に、早急に、街が整備される必要を痛切に感じました。
宅地や商業施設が必要だから、という理由よりは、
住民の方々の「気持ちの向かう場所」が必要だと思うからです。
局所的なプロジェクトや、ボランティア、その他の取り組みで、
徐々に、色々な事が進み始めているのも見受けられました。
例えば、僕の友人の実家は街の魚屋で、
震災後、自宅・お店ともに全壊していますが、
この11月に、いまだがれきに囲まれた、以前の場所に
お店を再オープンしています。
何もない周囲の中に屹立するお店の姿は、
その友人のご両親のガッツと、気持ちそのもののようで、
恐らくは、街の方々にとっても希望の灯となるような、
ランドマーク足り得ると思います。
オープンまで漕ぎ着けられた、そのご両親の志には素直に心を打たれます。
でも、住民の心意気と気持ちだけではやはり限界があるのではないか、
と率直に感じます。
僕の友人が、しきりに「グランドデザイン」という事を言っていましたが、
彼女の言う通り、「気持ちの向かう先」、
つまりは、「希望とか夢」という事なのだと思いますが、
街の夢を、住民の方で、宮城県民が、福島を含めた東北の人たちが、
そして国民が、本気でイメージをする必要性を感じました。
複雑な利害関係の調整が必要でしょうし、
財源の問題などもあるのかもしれません。
とはいえ、住民の方々の逞しさと、小さな努力だけでは、
早晩限界が来るのではないか、と現地で感じました。
外側からの援助、希望のイメージの援助、
そんな視点でできる事がないか、そんな事を感じてきました。
そして、やはり、被災地に生きる人たちを意識していること、
その方たちと同じ想いを持つ事は難しくとも、
そばにあろうとすること、
自分にそれを課す事を感じた1日でした。
無慈悲にも思いましたが、
街を照らす夕焼けはとてもきれいでした。
住民の方々が希望を持って、この夕陽を見れる日の
1日も早く来る事を願います。